「読書会」の不思議
みんなで読む?
読書は一人でするものです。もちろん、ちびっ子に絵本を読み聞かせする場合もありますが、基本的には一人で行うものだと言えるでしょう。だから「読書会」という言葉を初めて聞いたとき、「なにそれ?」と首をかしげました。学校の授業でもないのに、わざわざ寄り集まって各々が黙々と読書する場面が思い浮かんだからです。
読書会の謎
私は、欧米の映画で時折耳にする「読書会」という単語が、つねづね気になっていました。あるとき『ジェイン・オースティンの読書会』という映画(2007年公開作品)と出会いました。それまでは台詞でしか聞いたことのなかった「読書会」をテーマにした作品です。そこでようやく読書会とは、本を読む時間を共にするのではなく、同じ作品を読んだ上で感想や解釈を語り合う集まりだと理解しました。
江戸時代の読書会
最近、日本にも古くから「読書会」が存在していたことを知りました。江戸時代の「会読(かいどく)」は、私塾や藩校の生徒が自分たちで本を選び、内容について疑問や意見を討論するものです。学問に通じている必要はあっても、討論の場では身分や肩書きから離れて無礼講でした。議論が苦手とされている日本人にも、そのような機会があったことに驚きました。また、欧米でも現代の日本でも「読書会」は女性が中心というイメージが強いなか、男性中心の読書討論会があったという事実は興味深いものでした。
読書の功罪
すでに述べたとおり、読書は基本的に一人でする行為です。自分のペースで読み進められ、気になったところを何度も読み返して確認できます。そのため、他の媒体(動画や音声)よりも提示された情報への理解を深められます。一方で、裏を返せば「恣意的になる」というデメリットもあります。自身の興味や判断で読み飛ばしたり、読み直したりすることは「分かったつもり」を誘発する恐れがあり、必ずしも内容を的確に理解しているとは言い切れないためです。
適度なストレス
「読書」は知的で文化的な行為ですが、決して万能ではありません。たとえば、自分の都合で一時停止できないリアルタイムの音声情報(会話や会議など)に向き合うとき、どうしても内容の取りこぼしはあります。けれども取りこぼさないように、要点を掴むために集中して耳を傾ける時間は、人生においてある程度は必要で有益です(過剰にならない範囲で)。
サードプレイスとしての読書会
そう考えると「読書会」の役割が見えてきます。読書会は、読書を自分勝手なインプットで終わらせず、他者と言葉を交わすアウトプットの機会を提供します。つまり読書会を通じて、はじめて読書が知的で文化的な行為へ昇華されるのかもしれません。近年、一般的な読書量は減っているのに「読書会」は増えているという不思議も、少し納得できます。いわゆる「サードプレイス」の一つとして活用されているようです。
| 記事タイトル | 「読書会」の不思議 |
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| 掲載日 | 2026年10月31日 |
| カテゴリー | ブログ |
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