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論破よりも折衷案を

勝つのは痛快

いつの間にか「論破する」ことが格好いいかのような風潮を感じています。「ひろゆき」こと西村博之さんや、ラップバトルの人気が影響しているようです。「論破」とは、「相手を言い負かすこと」と辞書にあるので、ひろゆきさんと他の論客とのディベートやラップバトルに勝敗がはっきり出る様子は、きっと痛快に違いありません。それらがエンタメとして確立するのは当然だと思います。

あくまでエンタメ

ところが実際に物事を動かしていく現場では、意見の異なる相手を論破できたからと言って、あまり上手くいかないことの方が多いのではないでしょうか。原因のひとつとして考えられるのは、自分は「論破した」と鼻息荒く悦に入っていても、相手や周辺から見ると、それほど筋道の通った主張ではなく説得力に欠けていた、という可能性です。相手や周辺が「話にならない」「これ以上言い争っても労力の無駄だ」と閉口している状況を、「論破できた」と勘違いしてしまっているのです。もう一つの原因は、見事に論理的に相手を打ち負かしてしまったとき、つまり本当に論破できたパターンです。これは前者の勘違いよりも深刻な状況です。

共同や協働のためには

職場にせよ学校にせよ、一緒に何かを作り上げたり、達成したい目標がある過程で、意見の異なる相手を論破し「打ち負かした」場合に、その後の共同作業や学校生活はどうなるでしょう。打ち負かした相手から、目標達成のための協力を得ていくことは簡単ではありません。議論に勝ったのだから「自分が正しい」として、相手を渋々従わせることはできるかも知れません。でも、どうせなら相手のモチベーションも、渋々ではなく前向きなものにした方が効率がいいはずです。何しろ勝利と正しさは必ずしも一致しませんし、もし「勝った方に、その後の全ての決定権がある」を通してしまうと、まるで侵略戦争や独裁者のやり方と同じになってしまいます。

論破より折衷案

一部の学生が熱心に取り組んでいる「ディベート」は、二つのチームが議論で対戦する形をとっています。相手の主張に穴を見つけて指摘したり、反論や反駁したりして、より説得力のある論理展開をできたチームが勝ちます。これもある意味、相手を「論破する」ゲームとも受け取れます。ディベートは論理的に議論を重ねていく点で、学べることが多いと思います。ただ願わくば、ディベートという状況を離れて現実の問題に向き合うときには、そこで鍛えられた論理的思考や舌鋒を、相手を言い負かすために使うのではなく、意見の異なる人たちとの「折衷案」を見出すために活かして欲しいと思うのです。

セルフディベートの意義

戦略を練り努力を重ねて、競技や勝負に勝利するのは素晴らしいことです。しかし、そもそも勝ち負けで考えたり進めたりしてはいけない場面も、世の中には多く存在します。「考えるネコ、想像するイヌ」では、セルフディベートというコンテンツを用意しています。あえて二項対立で展開して、それぞれの主張には反論の余地があります。自分の意見と合わない主張の不備を見つけ出して叩き潰すのではなく、「そのような事実があるなら、こんな形で解決や改善ができるのでは」という未来型の思考を鍛えるための材料になればと考えています。

記事タイトル論破よりも折衷案を
掲載日2023年7月22日
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