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名前にまつわるエトセトラ

とにかく名前は面白い

直近のセルフディベートの「名前について考える」では、ひとまず「自分の名前」について考えました。前提の置き方から、何となくキラキラネームの賛否を問うかのような形になっていますが、本当は「名づけ」という行為の奥深さにフォーカスしたかったのです。「名前」というテーマは、かなり広い範囲で捉えることができるため、二項対立で展開するセルフディーベートには不向きだったかも知れません。

名前をつけてやる

すっかり大御所の域に入っているバンド、スピッツの2枚目のアルバムは「名前をつけてやる」というタイトルで、とても印象に残っています。何のことはない、アルバムのジャケット写真が「猫」だからなのですが、それと同時にスピッツなのに「つけてやる」という、ちょっと強気で生意気な言葉選びに惹かれました。スピッツのコアなファンの人に言わせると、この生意気さに意外性はなく「いかにも(草野マサムネ)らしい」のだそうです。一般に知られている楽曲のテイストからは信じ難いですが、もともとはパンクバンドだったせいかも知れません。ちなみに、「名前をつけてやる」に収録されている楽曲については、びっくりするくらい思い出せないので、タイトルのインパクトだけが私のツボにはまったようです。

存在とか認識とか

あるものを認識をすると、その存在が認識した人の中で強固なものに変わります。名前をつける行為は「認識する」ことと、とても似ています。哲学はややこしくて、よく分からんなーと感じている私でも、目の前に「誰か分からん人がいる」のと「◯◯さんがいる」との違いは大きいですし、さらに「よく見かけるけど、名前を知らん人がいる」のと「名前を知っている◯◯さんがいる」とでは、たとえ両者を見かける頻度は変わらなくても距離感に差を感じます。また、誰もいない場所で一人ぼっちだったり、逆に周囲に人がいても、その周囲にいる人が友人や知人だとしても、自分に意識を向けている人や理解してくれている人がいなくて「寂しい」という感覚は幼児期でも体験できます。けれども、その感覚が「孤独」と呼ばれている(名づけられている)ことを知る前と知った後とでは、何かが変わるような気がしています。

真の名

「本当の名前を知っているものによって支配される」という物語は、古今東西あちこちに存在します。「ゲド戦記」あたりが有名でしょうか。日本の昔話に、鬼の本当の名前を当てることができたら、その鬼が要望を聞き入れてくれるというもの(「大工と鬼六」)があり、グリム童話にも収録されている「ルンペルシュティルツヒェン」というお話も構造は同じです。現代でも、悪しき存在(悪魔みたいな超自然的な存在)から身を守るために、本名とは違う呼び名で生活する慣習が残っている国や地域があり、興味深いことこの上ありません。

君の名は

大人に対してはあまり尋ねませんが、人の名前の由来を聞くことが好きです。お寺さんにつけてもらったというケースもあれば、験(げん)を担いで縁起が良いとされる画数に合わせていったケースなどもあり、いずれも子どもの幸せを願っていることが感じられて良い気分になれます。余談ですが、私の名前はかなり雑につけられました。なんでも、男の子の名前ばかり考えていたらしく(実際にその候補はいずれも良い名前でした)、女の子が生まれて慌てた結果とのことでした。父が行きつけの喫茶店で子どもが生まれた話をしたことで、そこのマスターか常連客か、要するに私にとっては赤の他人が提案した名前になったのだと、母が不服そうに話してくれました。経緯はさておき、歳をとっても違和感のない名前なので、気に入ってはいます。「探偵!ナイトスクープ」あたりで、名づけてくれた人を探し出すのも一興かも知れません。

記事タイトル名前にまつわるエトセトラ
掲載日2024年7月20日
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