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ゆめみているか

身近な天才

谷川俊太郎さんが最近亡くなられたことを知り、コアなファンではないながらも感慨深いものがありました。詩(ポエム)に興味の薄い人でも、教科書やあるいは街中などで谷川さんの作品を目にしたことがあるはずです。昭和を代表するアニメ主題歌の作詞を手がけていたり、「ピーナッツ(スヌーピー)」の翻訳を手がけていたりと、意識していないところで私たちはその言葉を見聞きしています。そんな谷川さんを私が好きな理由は、詩人という、ともすれば芸術家気取りになりかねない肩書きであるのに、思いのほかプロ意識や職業意識を明確に持たれていた点です。

センスや成功に甘えていない

谷川さんは、日本の現代詩人の中でおそらく最も有名であり、しかも成功している文筆家です。それなのに、ポエムのような曖昧でふわふわしたものを生業にしながらも、だからこそ散文(通常の文章)との違いについて、常に真摯に向き合っておられるのだと、ある文章から感じたことがあります。「散文」と対照にあるのは「韻文」と呼ばれるものです。韻文とは、韻律=規則正しいリズムを持っている文章のことです。谷川さんの詩からは、たしかにリズムを強く意識していることが窺えます。もちろん群を抜いたセンスをお持ちの谷川さんですが、それだけに甘んじず、確信犯的に職人的に言葉に磨きをかけている印象があるのです。

ユーモアの力

私は(授業では取り上げられなかったものの)教科書に載っていた「いるか」を読んで、谷川俊太郎という作家に敬服しました。正直なところ、チョットふざけているのかなと思いましたし、駄洒落ですか?!とツッコミたくもなりました。けれども何とも軽妙な遊び心と、小気味よいリズム(まさに韻律)、そして「くだらないと思うなら書いてみれば」と言われても絶対に自分には書けないという確信。もう参りました、という言葉しか出てこないのに「いるか」を読んで、微笑みは絶えません。何かと陰鬱な作品の多い日本の現代詩のなかで、ときに切なさはあっても、どこかに根の明るさを感じるところも、谷川俊太郎を好きな理由として挙げられます。

せめて真摯でありたい

当然のことですが谷川さんと違って、私の書く言葉には値段はつきません。けれども言葉を使って何かを発信する以上は、言わずと知れた天才で日本中から認められている谷川俊太郎が何十年もされていたように、せめて真摯に言葉と向き合い続けなくっちゃ、と背筋を伸ばしました。いや、もっと伸ばさねばと心に鞭打つ初冬の夜です。

記事タイトルゆめみているか
掲載日2024年12月7日
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