なぜ、現代アートは『無題』なのか
具体と抽象
文章のタイトルや小見出しは、本文と比べると抽象的になることが多いです。いわば鏡合わせのような関係で、本文はタイトルに対して具体的になり、タイトルは本文に対して抽象化されます。特にアカデミックライティングにおいては、本文を削ぎ落として凝縮したものがタイトルとなるため、この「要約としての抽象」という構造が顕著に表れます。
文学のタイトルは、本文を凝縮した「香り」
一方で、文学的な文章におけるタイトルは、少し性質の異なる抽象化がなされます。それは内容を正確にまとめることよりも、中身を匂わせ、読み手のイメージを膨らませる「象徴(メタファー)」としての役割です。一時期ライトノベルでよく見かけた説明的な長いタイトルでさえ、物語を切り取って提示しているという意味では、やはり本文に対する「抽象」の一形態と言えるでしょう。
名付けの苦労
タイトルをつけるのは本文を書くことと同等に、あるいはそれ以上に簡単ではありません。アカデミックライティングのように内容を要約すればよいケースは、むしろ楽な方で、本文が長ければ長いほど、文学的であればあるほど困難を極めます。理由は、内容の要約をふまえつつも直接的な表現は避けて、かつ読者を惹きつけるタイトルにする必要があるからです。
逃げるための、私の『無題』
つまり、読了後に「釣り(詐欺)」だったと思われない範囲で、ネタバレせずに中身をほぼ一言で、美味しそうに匂わせなければいけない。やはり、難しいですよね。私はどうしてもタイトルが思い浮かばず、しんどいとき『無題』という題をつけることがあります。本音を言えば、ただただ考えるのが面倒くさいだけなのですが、現代アートでよく見かけるタイトルなので、ちょっと格好がつくというか、体面が保たれる気がしていました。
アートにおけるタイトルの変遷
ところが、現代アートにおける『無題』には一切の手抜き感は存在せず、実はきちんと意図があったのです。(西洋の)絵画も音楽も古くは宗教的なものから始まり、当初は作品にタイトルは存在していませんでした。美術館などが登場し、作品を分類、個別認識する必要が出てきてから、それまでの作品には研究者などがタイトルを付け、以降の作品の多くは作家自身が付ける慣習が生まれました。
言葉からの解放、そして委ねる
現代において作家があえて『無題』と提示するのは、言葉の先入観を排し、鑑賞者の感性を縛りたくないという能動的な決断なのだそうです。たとえば、タイトルに「悲しみ」とあれば、鑑賞者は無意識にその感情を探してしまいます。見えたままを感じて欲しいという作家の願いが、実は『無題』には込められていたんですね。これまで逃げ道としてその言葉を使っていた自分を、戒める機会となったアート情報でした。
| 記事タイトル | なぜ、現代アートは『無題』なのか |
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| 掲載日 | 2026年2月7日 |
| カテゴリー | ブログ |
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