「大喜利」の裏にある知性
「大喜利」にみる高次元なリテラシー
漫才も人を楽しませるには、高度な技術が必要です。一見、真面目とは対照的な位置にある「お笑い(ともすれば、おふざけ)」なのに、少しも容易くありません。「大喜利」も同様に、お題の文脈理解や大喜利特有の文法・セオリーをふまえる読解力が必須です。その上で、文脈から意図的に外したり法則を破壊したりした回答を求められるのですから、大喜利の名人は高度なリテラシーの持ち主であり、いわばワードセンスの権化だと言ってよいでしょう。
学びにも「オモシロ」を
真面目と「オモシロ(funny かつ interesting)」を両立させる難しさは、教育の場面にも当てはまります。たとえば語学におけるイディオムを見ても、理数科目における数式や法則を見ても、学習者に伝えるべき情報はすでに体系的に整理されていますし、カリキュラムとしても確立しています。ただし、必要な情報だけ提示あるいは教示しても、ちっとも面白い授業にはなりません。一方的に聞かされたり、演習をさせられたりするだけなら、いっそ自らネット検索や AIを使って、能動的に情報を取りにいく方が退屈しない可能性が出てきます。
授業は生きもの
とは言え、情報を伝えるだけでも、その準備にかかる時間と労力は想像以上です。AIの活用でコストは随分と軽減できるようになったものの、授業準備の負担が根本的に解消されたとは言い難いのが現状です。また、教材(授業中に使用するスライドや学習者に配るワークシート)の質が上がることと、授業そのものの質が向上することとは、必ずしも比例しません。生身の人間、しかもそれぞれに個性を持つ人たちを前にして「オモシロ」い授業を実現するには、努力はもちろん、センス(仮に持ち合わせていなくとも、意識を向けられること)も欠かせません。
ストイックに真面目にふざける
そんなことを考えていると、改めて劇場でたくさんの人を笑わせているお笑い芸人さんに強いリスペクトを抱きます。授業に限らず、生身の人を前にした営為は、劇場で観客を惹きつける行為ととても近いのかもしれないと、今さらながらに痛感しています。「オモシロ」は傍目には、おふざけに見えるのに、それを追い求める姿勢は、なんと大真面目なことか。修行、精進、鍛錬など、ストイックな言葉ばかりが連想されてやみません。
| 記事タイトル | 「大喜利」の裏にある知性 |
|---|---|
| 掲載日 | 2026年6月13日 |
| カテゴリー | ブログ |
| 表示数 | 2views |