東洋の美意識は、すでに現代アートだった
Narrative
以前に掲載したブログ「現代アート食わず嫌い」では、つねづね抱いていた「意味わからん」という感想はそれほど的外れではなかったと知り、私個人の現代アートへの食わず嫌いが少し解消できたことにふれました。とくに多くの人が共有できる物語性の欠如が、現代アートを分かりにくくしている点を取り上げました。ところが「ストーリー(共有)」は無くとも、「ナラティブ」と呼ばれる個人的かつ内省的な物語ならば存在していると示唆されると、歩み寄れそうな期待が生まれたのです。
What
その際に、お薦めした書籍『現代アートがよくわからないので楽しみ方を教えてください』では、アーティストや作品から「ナラティブ」さえ掴めないケースについても解説されていました。とにかく「物語」の全くない作品もあり、その場合はテクスチャ(質感)を徹底的に味わって鑑賞すれば良いようです。たしかに、意味はさっぱり分からないけれど、圧倒的な存在感を放つ作品があります。こうした作品の凄みは、写真や画面越しでは決して伝わりません。表面の凹凸、光の反射、物質の持つ重圧感など、百聞は一見にしかず。実物を目の当たりにすることこそ最善策と言えます。
How
また、意味よりも作品の「存在」と対峙する鑑賞法として、その「工程」にフォーカスする視点があります。たとえば「アクション・ペインティング」と呼ばれる塗料をキャンバスに絵筆で叩きつけたような作品は、偶然の産物に見える一方で、「再現不可能な一瞬」を定着するために隠れた試行錯誤を繰り返しています。「自分でもできそうだけど、実際には難しい気がする」そうした素直な発見や、アーティストの身体的な動きを想像してみることも、現代アートにおいては正しい鑑賞スタイルなのです。
Where
さらに、特定の「もの」ではなく、それらが置かれた「空間」を鑑賞するアートもあります。こうした作品での「もの」は、既製品(レディメイド)であることも多く、作家の「工程」へのこだわりは希薄になります。しかし、ある「もの」が存在することで、その場の印象が劇的に変化することを実感できるはずです。こう書くと、作品からの「問いかけ」が強くなり、少し厄介に感じるかもしれません。ですが、金沢21世紀美術館の『スイミング・プール』のように、そこに身を置くこと自体を楽しむ体験型のアートは、ナラティブやテクスチャを読み解く作品よりも、直感的に多くの人が楽しめる現代アートの形だと言えるのではないでしょうか。
New?
これまで私が、ストーリー性の欠落した現代アートに抱いてきた苦手意識。その根底には、そこはかとない違和感がずっと横たわっていました。それは一発勝負の偶然性や、「もの」を置くだけの空間演出に感じてきたものです。「現代アート」と銘打たれて提示されるそれらの手法に、私はあまり「新しさ」を見出せず、時にはチープな印象さえ抱いていました。
Why
その理由は、現代アートが革新として模索してきた表現の多くが、東洋では伝統的な手法として既に確立されていたからでした。たとえば「書」や「水墨画」の世界では、アクション・ペインティングの真髄と呼べそうな筆致に幾度も出会えます。床の間や日本庭園に至っては、「もの」が置かれた空間演出そのものです。また、周囲の景色を取り込む「借景」の概念も、現代アートにおける「インスタレーション」に通じています。歴史の中で洗練されてきたものを知っているぶん、一部の現代アートが既視感のある、チープなものに見えてしまったのだと納得できました。同時に、私たちが受け継いできたアジアの感性を研ぎ澄ませば、今後は現代アートをもっと身近で、愉しみがいのあるものとして鑑賞していけそうです。
| 記事タイトル | 東洋の美意識は、すでに現代アートだった |
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| 掲載日 | 2026年5月16日 |
| カテゴリー | ブログ |
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