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関西弁に見る「クリティカルシンキング」

興味はあったり無かったり

私の自宅は山の中腹にあり、登山道の入り口が近くにあるので、家から出かける際にはよく登山客とすれ違います。ある週末、これから山登りをします!という出立ちの男女2人連れを見かけました。登山客の女性が男性に向かって「ヤナギブソンって芸人いるやん」と話しかけているときに丁度すれ違ったせいで、私は駅に向かう間「あの後いったい何の話をしたんだろう」と少し気になってしまいました。ヤナギブソンさんは関西のテレビ番組などで活躍している芸人です。MC(番組を進行する人)から話を振られると、流暢にトークを繰り広げてから「誰が興味あんねん!」と締めくくるのが定番の流れになっています。プライベートなエピソードを展開することが多いので、「(俺のそんな個人的な話に)誰が興味あんねん!」という、一種の自虐ネタ(ギャグ)なのです。

保険をかける言葉

嫌がる人も多いのですが、関西ではしばしば「オチのない話をするな」と言われます。この前提があるので、毒にも薬にもならないエピソードトークの後に「誰が興味あんねん!」と置くことで、大して面白くない話をしたことは認識しているので、許してくださいね、という自虐的エクスキューズが成立します。今では本来の関西弁の枠を超えて、全国的に若者がよく使うようになった「知らんけど」も似たような役割を果たしています。「オチのない話をするな」からも分かるように、関西人の喋りは場合によってはキツく聞こえるため、勢いよくさも正論のように語りきったものの、最後に「知らんけど」と付け加えて全体の印象を和らげようとしています。あるいは「あくまで個人の見解に過ぎない」という意味合いも出せるので、どこから非難の言葉が飛んでくるか分からないSNSの世界で生きる人にとっては、便利な言葉として普及したのではと推察します。

サービス精神がベース

「誰が興味あんねん!」も「知らんけど」も、ある種の保険や保身として機能しています。一方で、ベースにある関西人の文化や価値観は、サービス精神や優しさに由来しているとも感じています。たとえば、「オチのない話をするな」と言われた方は確かにショックですが、言った側の人には「同じ話をするなら、面白いものを聞かせて相手に楽しんで欲しい」という価値観があるのです(もちろん芸人でもない一般人に、そのサービス精神を強要してはいけないのですが)。「知らんけど」も、嘘をついているつもりはないけど「話の内容が間違っていたらゴメンやで、許してや」の省略形だと捉えると、庶民的な人柄の良さを感じ取ることができます。

実践クリティカルシンキング

先述した2つのキーワードだけでなく、関西弁や漫才に見る「ツッコミ」というものは、いわゆる「クリティカルシンキング」につながっているように思います。「クリティカルシンキング(批判的思考)」の「批判」とは、すべてを「否定」してかかることとは似て非なるものです。本当にそうなのか?を検討して判断することです。そこで「ツッコミ」に話を戻すと、「なんでやねん」も実は全否定ではないのです。漫才の場合は、ボケの人が変わった視点からものを言い、そこにツッコミの人は「なんでやねん」と常識的な視点からものを言っています。また、「知らんけど」はあらかじめ、自分以外の視点(思想、感覚、価値観)の存在を示唆しています。どちらも、他の視点、つまり自論や定説が正しくない可能性をふまえて展開しているところが、ある意味でクリティカルシンキングを実践していると思うのです。

ツッコミこそ複眼的思考

歴史上、絶対に正しいと信じられていたことが間違っていた事例は間々あります。天動説ではなく地動説が正しかったこととか、真理のように扱われていたユークリッド幾何学の平行線公準が成り立たないとする「非ユークリッド幾何学」が認められるようになったことなどです。もっと身近なところでは、1980年代までは常識のように言われていた、「スポーツの訓練中に水を飲んではいけない」という情報は、今なら考えられない間違った指導法でした。ですから、自分の常識でも世の中の常識でも「なんでや」「ほんまかいな」と、他の角度から考えてみることは、意地悪でもへそ曲がりでもない、とても大切なことではないでしょうか。

記事タイトル関西弁に見る「クリティカルシンキング」
掲載日2023年10月14日
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