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「勉強ができること」は良いことか

「勉強ができること」を評価する社会

日本において、「勉強ができること」は良いこととされています。この前提のもとに、親は子どもに勉強をさせようとしますし、会社は学生の時に勉強ができたかどうかを採用の基準のひとつとしています。我々は、勉強ができることを評価する社会を維持することで、より快適な生活のための技術革新を促し、文化的で平等な社会を形成し、民主主義を維持していると言えるでしょう。

「勉強ができること」を評価しない社会

それでは、勉強ができることを評価しない社会はどんなものなのでしょうか。それが実際に起こることはほとんどないと思いますが、それに近い状態を引き起こすのはそれほど難しくないようです。たとえば、義務教育期間で留年制度を設けると、勉強ができることを評価しない社会に近づく、という言説があります。これは、義務教育の学習内容がスムーズに理解できない児童や生徒は、留年したとしてもその状況が変わる可能性が低く、義務教育過程を修了するのに時間がかかり、結果として退学に近い形でドロップアウトすることになってしまうからだ、という推測に基づくようです。ドロップアウトしたとしてもその後の人生は続きますが、本人の努力や社会福祉を利用するなどで何とか生きていくことはできるはずです。しかし、その経験から「勉強なんかしなくても生きていける」という考えに至り、周囲や子どもにその考えが伝播していくのでは、というところが問題になるようです。本来、社会全体の基礎的なリテラシーをあげるための施策として実行されそうな「義務教育課程での留年システム」が、逆方向に働く可能性があるのは興味深いところです。

「勉強はできる」をどう扱うか

実際には、我々は勉強ができることが評価される社会に生きているのですが、それでは勉強「は」できる、ではどうでしょうか。高校生までは、あるいは大学生になったとしても、勉強はある程度テクニックでこなすことができるので、「勉強すること」が得意な人は相当数います。ただし、それ以外のことが苦手な場合もあります。たとえば遵法意識が低かったり公正さに欠けたていたり、組織での振る舞いや他人とのコミュニケーションが下手だったり、自主性や自己管理能力が低かったりなど、社会の構成員として問題を抱える人も少なくないでしょう。そのような人たちは、学生から社会人に切り替わった瞬間に、自分への評価が下がることに苦しんだり、極端な場合は適応できない社会を敵視したりする可能性もあります。

「勉強もできる」を正しく評価する

学生時代に勉強ができなかったからと言って、勉強することを軽んじたり、それ以外のことができないことを揶揄したりするのも虚しいですし、逆に、学生時代に勉強ができたからといって、他に苦手なことがあるのを放置して、居丈高に人を馬鹿にするのも間違っているように思います。勉強ができることを評価する社会を維持するためにも、「勉強ができる」ことのみを評価するのではなく、「勉強もできる」ことを正しく評価していくと、よりよい社会に向かっていくのではないでしょうか。

記事タイトル「勉強ができること」は良いことか
掲載日2024年10月19日
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