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ボケとツッコミについて考える

ボケとツッコミについて考える
前提となる事実
「漫才」という呼称の由来は、新年に歌や踊りで家の繁栄や長寿を祈る祝福芸「千秋万歳(せんずまんざい)」とされています。現在のようなボケとツッコミの掛け合いによる漫才は、昭和の初めに横山エンタツと花菱アチャコが始めました。野球を知らない者(ボケ)と知っている者(ツッコミ)の会話を設定とした「早慶戦」は代表的な演目です。

ボケが重要である

ボケこそ「お笑い」の主役である

「漫才」の起源は、「狂言」にあると言われています(参考01)。歌や舞を中心にシリアスな題材を多く扱う「能」に対して、「狂言」は人間の持つ「おかしみ」を、対話によって取り上げた喜劇です。人間に備わった本質的な滑稽さを、ときに写実的に、ときには戯画的に言葉と仕草で演じることによって「笑い」を生む伝統芸能です(参考02)。「漫才」において、滑稽を演じているのはボケに他なりません。ボケが日常的な失敗談などを、面白おかしく披露することで「お笑い」が成立しているのです。

型破りの妙

漫才では、ボケによる「間違い」や「発想の飛躍」が笑いを生みます。ボケの基本は常識からの逸脱ですが、常識という「型」を破るには、常識(型)を熟知しておく必要があります(参考03)。どれほど豊かな想像力と独創性があっても、誰からも共感を得られないような突飛なボケでは、笑いを生み出すことはできません。例えば、かまいたち(山内健司と濱家隆一)のネタのひとつに「『となりのトトロ』を一度も観たことがない」というボケを軸に展開していくものがあります。ここでは「となりのトトロ」なら誰でも観たことがあるはず、という当たり前(常識)がベースになっています(参考04)。また、さや香(石井と新山)がM-1グランプリで優勝を争ったネタでも、「自動車の運転免許を返納するのは高齢者」であることや、「ホームステイをする留学生は若者」であるという既成概念を覆すボケを中心に据えていました。多くの人が、呆れながらも理解や共感できる範囲で、常識から絶妙にズラす技術によって、型破りでクリエイティブな印象を与えているのです。

能ある鷹が爪を隠している

ボケには常識を覆す形以外にも、徹底的に「ばか」を演じて笑いを誘う形があります。落語にも登場するような「間抜け」なキャラクターは普遍的な存在であり、どこか魅力的です。のべつ幕無し一方的に喋り続ける人物や、同じ失敗を延々と繰り返す人物などを、強烈な個性として描き出すボケは、やはり共感を得るものでなければいけません。例えば、錦鯉(長谷川雅紀と渡辺隆)のボケは本人そのものであるかのようにキャラクターが定着しています(参考05)。他にも、サンドウィッチマン(伊達みきおと富澤たけし)のボケは語源とも言われている「とぼける」を繰り返して、ツッコミの正論をのらりくらりとかわし続けます。観客が「こんな人はいない」と笑いつつも、「でも近い人なら知ってる、見たことある」と思わせる人物像であり、決して「ばか」では演じられない技術の賜物と言えます。

ツッコミが重要である

「爆笑」に導くのはツッコミ

ツッコミの役割は、ボケの非常識や荒唐無稽に対して、常識や正論で軌道修正することです(参考01)。ツッコミが指摘や訂正をすることで、ボケの面白さが明確になります。これにより、ボケだけではピンとこずに反応できなかった観客からも笑いを引き出すことができます。つまりツッコミは、ただボケをたしなめるだけでなく、常識的な観客に非常識なボケの笑いどころを提示する役割も果たしています(参考02)。単発の笑いでも十分なのですが、ひとつのネタの中で笑いを増幅させていき、最終的に爆笑を生み出すためには、ツッコミは無くてはならない存在なのです。

ツッコミは潤滑油

ツッコミが、ボケを補完することも多くあります(参考03)。「乗りツッコミ」とは、いったんボケの流れに乗って(話を遮らずに話を合わせて)から誤りを指摘するものです。近年、漫才の技術がどんどん洗練されており、流れに乗ってボケを丁寧に説明するツッコミが笑いを大きくするケースも見られます。例えば、ヤーレンズ(楢原真樹と出井隼之介)が中島みゆきの歌「ファイト!」を取り入れたネタでは、サビの「ファイト!」の部分を極端に短く歌うくだりがあります。ツッコミは「ファイト!」の短さだけを指摘して終わるのではなく、アントニオ猪木のテーマ曲である「炎のファイター」の「ファイト!」の部分を真似ていることが伝わるように、リングへ入場する様子をジェスチャーで再現していました。

日本独自のアプローチ

アメリカの話芸「スタンドアップコメディ」の演者は主に1人で、ボケにあたる風刺や皮肉、ものまねを駆使して笑いを取ります。スタンドアップコメディは、「ジョーク」と、パンチラインと呼ばれる「落ち」が肝だと言われています。どちらも日本人にも馴染みがあるものですが、いまいち面白さが伝わりにくい要因として、ツッコミにあたる部分が存在しない点が挙げられます(参考04)。日本の伝統芸能である落語も単独で行う話芸ですが、1人が複数の登場人物を演じ分け、その中でボケとツッコミにあたるやり取りがあります。スタンドアップコメディにせよ、日本人によるコントにせよ、演者の数と関係なくツッコミの役割が存在しないお笑いでは、ボケとの相性の良し悪し、つまり価値観や共通認識が一致しているかどうかが、面白さの大半を決定してしまいます。ツッコミは、コントでも漫才でも、ボケの独りよがりな暴走を止めたり、ボケと観客の間にある齟齬を解消したりして、多くの人が受け入れやすい笑いに昇華しているのです。

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